ハルコの徒然

イラストや漫画の感想などを徒然と

評価の話

評価が欲しいのは当たり前だと思う、ってツイートをどっかで見かけて。承認欲求は悪いものじゃないって意見も見かけて。今布団に入ってふと、その根幹は日本人が「評価する教育」をずっと受けてきたからなんじゃないか、って思った。

 

ほとんどの若い日本人は小学校入学から大学卒業まで、「通知表」という評価単位にさらされて生きてきたわけだよね。それが社会人になると給与明細に変わったり、昇進や左遷()による肩書きの変化に変わったりするわけだけど、それらのことって「通知表」よりはどこか曖昧で、自分のことを形骸化してくれるものではない。そこに不安を感じることってあるんじゃないかなって思ったの。

なにをしなくても誰かが見ていてくれる、誰かの評価の目にさらされている。そういう学校生活に慣れている人にとっては、評価に形がないと不安を感じてしまうのかもしれない。特に学校での評価がよかった人間にとっては、社会という目に見えない評価に満ちた世界に放り込まれると、自分の価値がどこにあるのかわからなくなってしまうのかもしれない。

 

よく、成績優秀だった人が会社に入ると途端に病み出す、ってエピソードを聞くけど、それは会社には「通知表」もなければ「テスト」もないからかもしれないね。

テストの点数による成績評価って実は結構らくちんなもんで、テスト期間じゃない間はけっこうぐでぐでしていられる、テスト期間になれば勉強すればイイ、くらいのオンオフを入れやすいものでもあったりする。

でも社会に出ると常にテスト期間みたいなもんだから、学校のオンオフスイッチを入れられるテスト期間とは違ってものすごくエネルギーを消費するわけね。そうすると、「テスト期間に120%頑張ればいいや」と体に染み付いてたタイプの人なんかはエネルギーの使いすぎで疲れちゃうんじゃないかなぁ、と。

そこにもってきて、それだけ頑張ったのに帰ってくるのは「お客様の笑顔」とか「給与明細」とかいう形のない評価単位だけ。それを良いと受けとるか悪いと受けとるかは自分次第で、満足できるかどうかも自分次第。そうさると、頑張りの明確な数値化に慣れていた人間は突然梯子を外されたような心持ちがするのではないかな。

 

私の趣味である「絵を描く」「お話を書く」っていうフィールドであっても、「評価が欲しい」「フィードバックがほしい」って悩むのは、その絵に対する良し悪しの明確な数値化がないからかもしれない。SNSで貰ういいねやブックマークの多寡は数値化にはあまり役立たない。

だって普通の統計学だって統計学的に有意であるためには最低でも1000の母体が必要なわけで、1000人もフォロワーのいる絵描きって、そうそういるもんじゃないじゃない?その条件が満たされていたとしても、その1000人がランダムに抽出された1000人ではなくある程度「その人の絵が好き」という趣味嗜好の偏った1000人である以上、「その評価を信じていいものなのか?」っていう不安は常に付きまとうはず。

その上絵描き自身が見ている世界もその人の趣味嗜好に偏った世界だから、井の中の蛙的に視野が狭くなっている可能性は拭えない。

 

「評価が欲しい」って言葉の裏には、全く異なる個性の人間たちが集う学校教育の場で、テストの点や先生の心象といったある程度一律の基準のもと、15年(前後)もの歳月の間、成績をつけられ続けてきたがゆえに形成された、「客観的、かつ定期的に、自分の出来映えの良し悪しを知りたい」っていう気持ちが隠れているのかもしれない。

……まっ、単純に「うまくなって誉められたい」って気持ちから発せられる可能性の方が大きいけどね!

 

そんなことを考えていたらもう朝じゃないか。寝なば。お休み!